
「ゆだねない社会」をめざして ー 生活世界から考える公共性
ほぼ同じ。
研究プロジェクトとは、卒業制作に向けた自身の研究をすすめる場であって、受け身で何かを教えてもらう場ではありません。それは、大前提として理解しておいて下さい。また、具体的に研究事例を決めておいて下さい。なんとなく、ある領域について「勉強してレポートを書きます」という姿勢では、卒業制作につながりません。
A. 関心領域 本研究プロジェクトは、以下の領域を関心対象としています。
(1)中国研究全般
(2)(地域を限定しない)市民社会論、第三領域論、中間組織研究、宗教研究
(3)その両方
これは、担当教員の専門領域によるものです。
今の中国社会が直面している問題は、必ずしも中国固有の問題ではありません。みなさんが暮らす日本社会とも、決して無関係ではないのです。研究プロジェクトの紹介として、少しそのあたりの話をさせていただきたいと思います。
B. 「官=公、民=私」ではない
かつては、「官=公、民=私」という図式が、当たり前であるかのように考えられてきました。「公」務員とは「官」僚のことですし、「民」間企業とは「私」企業のことですね。(その間を架橋する、「第三セクター」なんて事業体もありますが、ここで言う「第三領域」とは関係ありません。) しかし、「官」は本当に公益を追求しているのでしょうか?彼らが雨後のタケノコのように設立している独立行政法人は、本当に公益のために存在しているのでしょうか?官公庁が権限を手放さないのは、本当に国民の利益を考えてのことでしょうか? 一方、「民」は本当に私益の追求に終始しているのでしょうか?NPOは民間組織ですが、非営利を謳っています。対人地雷に反対するNGOは、「国益」の名のもとに地雷使用の継続を求める国家よりも、普遍的人権や国際平和といった、もっと大きな「公」を追求しているようにも見えます。 つまり、民間には「市場」という名の私益追求の場と、「市民的公共圏」「第三領域」という公益追求の場があるのです。市民的公共圏のアクター(有志の個人やNPO、NGO等)は、「官」が「公」の仮面の裏に隠している「私」を監視するとともに、「官」が手を付けようとしない種類の「公」を実現しようとします。ここに、「第二の公共」「新しい公共」の生まれる可能性があります。
C.「ゆだねる」ことの怖さ
では、なぜ民間にも「公」を求める動きがあるのでしょうか?国や自治体まかせではいけないのでしょうか?孤独死にせよ、失業者やホームレス問題にせよ、我々がメディアでよく耳にするのは、「行政は何をしているんだ?」という声です。しかし、福祉が行政機構(=官)の仕事になったのは、わりと最近のことでしかありません。 中世においては、家を失い流浪する人、食物を手にできない人に、たとえば寺院などが粥の炊き出しを行っていました。国は、何もしてくれません。こういう社会で人は、困った人を見るたびに、神仏から良心の試みを受けることになります。困った人を助けるのも、知らんぷりして通り過ぎるのも自由ですが、その判断が死後の裁きにつながってゆくわけです。それに比べて我々は、気楽なものです。そういう人を見るたびに、頭をふって「行政は何をしているんだ」とつぶやけば、済んでしまうのですから。税金を払っているのだから、福祉は「官」がやるべきだ・・・つまりこれは、中世において民営であった福祉が、近代では国有化されているということですね。しかしこの考え方は、人間の良心を神仏の試みから免除してしまいました。我々はまちがいなく、内省の機会をひとつ失ったのです。極論すれば、良心まで国有化されてしまったのかも知れません。 この意味で、「官」に「公」を独占させない「第二の公共」「新しい公共」は、良心を「官」の世界にゆだねない、道徳的自律性回復の試みでもあります。この覚悟が我々ひとりひとりにないと、いじめも孤独死も解決しません。一番近くにいて、一番問題を理解し、一番関与しやすい人が良心を国有化され、行政をののしっているだけでは、事態は改善しないのです。
D. 善き生のために
「第二の公共」「新しい公共」は、市場にも疑問をなげかけ、単なる拝金主義や消費主義で終わらない、善き生を模索します。 市場は、ボランタリーな労働を嫌います。なぜなら、それはお金に換算できないからです。東南アジアの村落では、村総出で寺の建築や修復を行います。これはボランティアですから、GDPに換算可能な富を生みません。しかし日本の寺は、宮大工(最近は普通の建設会社)にお金を払って建ててもらいます。これは、課税対象のお金ですから、GDPの一部として可視化されていますね。日本では、宗教も市場化の度合いが強いようです。 日本でもまだ市場化の度合いが低い空間として、家庭があげられます。家庭内労働は、ボランタリーです。親が育児をするのも、家事をするのも、すべて愛する人のための自発的行為です。市場としては、これを外注化してもらったら大助かりですね。育児は保育所という形で外注化し、家事は家事サービス会社にまかせる。そして夫婦には、外で共働きしてもらう。こうすれば、保育所の収入、家事サービスの収入、夫婦共働きの収入、すべてが課税対象となり、GDP拡大に大いに貢献することになります。(実際、それに近いことを言っている政治的指導者が、最近いませんか?) しかし、こうしてGDPが拡大されれば、人間は善き生を送れるのでしょうか?宗教や家庭までが市場化される社会は、人を幸福にするのでしょうか?親が育児に参与しない生活は子供を幸福にし、家族がばらばらに外食する生活は家庭を幸福にするのでしょうか?たとえばNPOが地域のグループ保育を推進し、氏子組織や教会員組織が宗教施設の管理運営に積極参与する社会と、何でも市場化(金で解決)する社会と、どちらか豊かな社会なのでしょうか?「第二の公共」「新しい公共」の第一歩は、そうした問題への内省的姿勢から始まるのだと思います。
E. 国家にも市場にもゆだねない社会
そう考えると、「第二の公共」「新しい公共」は、「国家にも市場にも安易にゆだねない」姿勢として、理解できるかも知れません。 私が研究する中国社会においては、「社会主義改造」の名のもとに、一度は市民的公共圏のアクターすべてが廃止、ないし国家に接収されてしまいました。「官」の代表する「公」だけが、社会のすべてを飲み込んだのです。それが毛沢東のしたことだとすれば、訒小平は「改革開放」の名のもとに、「民」を市場にゆだねました。結果として、拝金主義が横行することになります。経済を神の見えざる手にゆだねるとした。 アダム・スミスは、道徳の重要性を理解し、『道徳感情論』を執筆しました。健全な市場には、道徳的良心が必要だからです。しかし、「官」の代表する「公」に飲み込まれ、いわば良心を国有化されてしまった人々には、市場を道徳的に検証することができません。むしろ、従順な拝金主義者、消費主義者になります。 この一点を考えても、中国が真に民主化するためには、制度的に西側の真似をすればよいわけではないということがわかります。健全な市場と健全な民主主義の前提は、すべて道徳的自律性を備えた市民社会の有無にかかってくるのです。 近代化の過程で起こったこうした「公」「私」をめぐるゆがみは、中国において特に集中的にあわられているように思いますし、私の研究における主な関心もそこにあります。しかし前述のように、これはもちろん中国のみの問題ではなく、すべての国が大なり小なり直面している問題なのです。
F. さいごに
本研究プロジェクトには、私の指導する大学院生も参加してもらっています。その多くは、私と同じC領域、つまり中国社会の研究に携わっています。しかし、前述のように、中国社会の直面する問題は、他国においても他人ごとではありません。ですので、本研究プロジェクトでは、中国研究にテーマを求めたい人、中国に限らず市民社会、公共性の問題などに関心を持つ人、いずれをも歓迎します。参考までに、ここ数年の学部卒業生の研究テーマを、一部、例として以下にご紹介します。
(1)中国関連
『中国都市部の業主委員会の勃興と、国家社会関係の変容』
『中国東北工程と中国朝鮮族社会』
『亡命チベット人による諸団体の役割』
『中国における2008年以降の行政改革の進展 -「服務型政府」の建設に着目して-』
(2)諸地域の社会関連
『長崎平戸地方に残る隠れキリシタンの現代的意味』
『在特会に見る「右傾化」する若者たちの行動動機』
『日本における外国籍労働者ムスリムの社会と、地域の関係』
『横浜ホームレス支援団体の現状と問題点』
『東京都稲城市の里山保存運動をめぐって』
『福島県飯館村被災民による社会ネットワークの再構築』
『被差別部落が取りうる現代社会の様相』
『協働のまちづくりに向けて住民組織が果たした役割』
『多文化社会コーディネーターの必要性』
『オウム真理教教団成立の社会的背景』
『在宅介護における課題を現場から検討する』
『多文化地域社会の中でエスニックメディアが果たす役割の考察と展望』
『「屈辱の日」に込められた沖縄の思い』
『社会企業の役割と問題』
『ミニ・パブリックスに対する議会の意識と態度:東京都三鷹市を事例に』
『被差別部落が取りうる現代社会の様相−鳥取県の被差別部落の実態とその背景』
『協働のまちづくりに向けて住民組織が果たした役割 ―岐阜県不破郡垂井町を事例に―』
基本、こういった研究は本研究プロジェクトの趣旨に合致します。その他の質問等は、ログイン名(tjm)あてでメールをいただければお答えします。