
生活世界から考える公共性
ほぼ同じ。
本研究プロジェクトは、以下(1)(2)のいずれかに関する研究に対応しています。
(1)中国研究全般
(2)中国に限らず、市民社会、NGO等の中間組織、宗教に関わる研究
これは、担当教員が中国の宗教系NGO等を研究対象としているためです。なんらかの点で、これらの領域にひっかかると考える方は、お気軽に声をかけてください。
**********
ここから先は、なぜ担当者がこのような研究をしているのかを、簡単にご紹介しておきます。ひょっとしたら、履修上の参考になるかもしれないので。
A.マッキンタイアという思想家がいます。彼は、近代以降の世界が、道徳的基盤を欠いていると言います。私は、正確に言えば、政治や市場といった制度世界が、道徳的基盤を欠いているのだろうと思っています。近代自由主義は、理性により人間が慣習や信仰の「偏見」から解き放たれ、自由になると考えました。ですから、自由主義が想定する制度世界は、慣習や信仰に縛られず、価値的に中立でなければなりません。ただし、それが偏見であれなんであれ、生活世界における個人の選択にまで、制度世界が介入すべきではないとも主張しました。ですから、米国や日本のような、原則として自由主義的な国家は、制度世界において政教分離を貫くと共に、生活世界では信教や思想の自由を守ります。結果的に、自由主義的な制度世界では、慣習や信仰のもたらす道徳ではなく、貨幣価値がデファクト・スタンダードになります。経済成長と、物質的に豊かな国民生活、そしてそれを脅かさないための治安維持や国防が、最優先業務になります。
ですから、そこに道徳的基盤はありません。実際、「自由主義は、結局功利主義に終わる」と言われても、T.ホッブズみたいな「現実主義者」は、きっと反論しないだろうと思います。一方、「自由主義の掲げる理性からだって道徳は導ける」と頑張っていたのが、古い所ではI.カント、最近だとJ.ロールズとか、J.ハーバーマスですね。ハーバーマスは、生活世界では自由に語られる慣習や信仰の中から、どうやったら理性によって明示的に言語化された道徳を導き、制度世界にまで反映できるか、そのためにどんなコミュニケーションが可能かを、真剣に考えました。例えば彼は、「宗教信仰を持つ者は、信仰とは無関係な理性的表現に翻訳して発信しろ」といった主張をしています。
一方、自由主義を「私」の暴走として否定しつつ登場したのが、民族主義や社会主義といった権威主義システムです。権威主義は、制度世界から慣習や信仰を追い出すのではなく、唯一正しい信仰を、最初から決めてしまいます。民族主義においては、民族が神格化され、その伝統を守り、振興をはかることが、無条件に正義とされます。それ以外の信仰は、この国営正義に従属する形でしか、存在が認められません。社会主義も、階級や革命を神格化しているだけで、あとは一緒です。神格化された何かは、要するに偶像ですね。その偶像のためには、命も差し出すというのが、権威主義の考える「公」です。権威主義を推進する政治勢力、政党は、国営偶像崇拝教団のようなものです。
すると、我々は悲惨な状況にあることになりますね。自由主義にあっては貨幣という偶像に従属し、権威主義にあっては国営偶像に従属しているわけですから。で、マッキンタイアの話に戻りますが、「どこに道徳がある?」という話になります。
個人的には、そこまで悲惨でもないだろうと思っています。ハーバーマス的に考えれば、生活世界には生きた道徳があるのですから。ただし、「それを明示的な言語に変えるコミュニケーション過程なんて、本当にあるのだろうか?」「制度世界に反映させる必要なんて、あるのだろうか?」とも思います。制度世界の貨幣偶像や国営偶像に負けない強さが、生活世界に備わっていれば、我々は抵抗できるし、その抵抗に自由と主体性が宿ると思うのです。例えば、原子力発電所を考えてみてください。「原発反対」を言語化して、国会議事堂の前で叫ぶばかりが抵抗ではありません。国がみなさんの生活世界に、金銭的補償をちらつかせて原発建設の受け入れを打診してきた時に、NOと言えれば、それで十分な抵抗だと思います。NOと言えるのは、我々が日常の中で対話、協働を通して、不断に道徳意識を更新しているからです。宗教社会学者R.ベラーは、そのような道徳意識をinstituteと呼びました。
明示的言語にまで持っていくことにこだわるハーバーマスは、J.デリダの言う「ロゴス中心主義」的傾向があるのかも知れません。H.アレントは、「現われ」を言語的lexisと非言語的praxisに分けていましたが、言葉にすることが、コミュニケーションのすべてではないだろうと思います。instituteは、非言語的な実践の中からでも生まれます。で、私は、中国のようなバリバリの権威主義、ガチの国営偶像を掲げる国で、宗教的実践がどこまで新たなinstituteを生み続けられるのか、という点に注目して、こんな研究をしているわけです。
**********
これもご参考までに。過去の履修生諸君が書いてくれた卒論の一部です。
領域(1)関連
『中国都市部の業主委員会の勃興と、国家社会関係の変容』
『中国東北工程と中国朝鮮族社会』
『亡命チベット人による諸団体の役割』
『中国における2008年以降の行政改革の進展 -「服務型政府」の建設に着目して-』
領域(2)関連
『長崎平戸地方に残る隠れキリシタンの現代的意味』
『在特会に見る「右傾化」する若者たちの行動動機』
『日本における外国籍労働者ムスリムの社会と、地域の関係』
『横浜ホームレス支援団体の現状と問題点』
『東京都稲城市の里山保存運動をめぐって』
『福島県飯館村被災民による社会ネットワークの再構築』
『被差別部落が取りうる現代社会の様相』
『協働のまちづくりに向けて住民組織が果たした役割』
『多文化社会コーディネーターの必要性』
『オウム真理教教団成立の社会的背景』
『在宅介護における課題を現場から検討する』
『多文化地域社会の中でエスニックメディアが果たす役割の考察と展望』
『「屈辱の日」に込められた沖縄の思い』
『社会企業の役割と問題』
『ミニ・パブリックスに対する議会の意識と態度:東京都三鷹市を事例に』
『被差別部落が取りうる現代社会の様相−鳥取県の被差別部落の実態とその背景』
『協働のまちづくりに向けて住民組織が果たした役割 ―岐阜県不破郡垂井町を事例に―』
以上。